この記事へのコメント
平凡に歩んで来た、という人生への感慨が愚直ともいえるほどそのままに詠まれている三句めまでに対して、結句でぱっと景色が変わります。波乱万丈に生きていたら立ちどまることのないかもしれない金木犀。平凡に歩んで来たからこそ味わえるちょっとした幸福の象徴のようにも思われます。
Posted by 冨樫由美子 at 2016年11月09日 01:11
 前評者と違う感想(感触と言った方が正確か)をこの一首に覚えます。四句までの措辞は、自分の人生に対する作者の今の感懐であり、似たような人生を歩んで来た私の感懐とも重なります。結果として平凡であったと振り返る今の感懐をこの四句までは詠ったものでしょう。私の場合は、個人的には、作者のように平凡を侮ったりはしなかったが、かと言って平凡には生きたくはなかった。 …まあ、それはそれとして、生き方が平凡であろうが非平凡のそれであろうが、結句の「あっ金木犀」は幸福の象徴でも比喩でもない。
秋ごとに咲き匂う金木犀、自分も年たけて、今ここにこうして秋を生きている、別に金木犀でなくても、春であれば桜であっても夏であれば朝顔であってもよいと考えられます。この一首のポイントは生きていることの共感ではないか。あるいは金木犀を見て作者は「生き返った」のではないか。象徴として見るならば、人生の平凡・非平凡に拘泥しない、金木犀は作者にとって「命」および「再生」そのものではなかったろうか。…と、以上のような感想を、わたしは持ちました。
Posted by かわすみさとる at 2016年11月09日 05:45
かわすみさんの意見に賛成です。
平凡な人生を侮ったりはしませんでしたが、私自身は自分らしい人生を模索しても結局はさほど変わった人生は送ってこなかったように思います。でもそれが自分なのだと最近とみに思うようになりました。
節目節目に立ち止まった時、ハッと気付く何かがあり、この方は金木犀が目に入ったのでしょう。気付くということはそこに意識が行くということ。新しい何かに気付くことがかわすみさんのおっしゃる「命」「再生」なのではないかと思います。
Posted by 鎌田章子 at 2016年11月09日 08:48
四句目と結句の間の一字空けには、「それはそれとして」というようなニュアンスが含まれているように感じました。結句でパッと切り替わる感じが面白いです。
読む人の様々な解釈が生まれるのは、この歌が面白いいい歌だからだと思いました。
Posted by 高澤志帆 at 2016年11月10日 23:14
いやあ、私は、金木犀が香る道を歩いているときの歌と読みました。

つまり「歩みて」が、ホントに歩いているという、人を食ったような歌。
散歩をしていて、「平凡をあなどりつつも平凡に歩みて」きたなあ、なんてことを考えながら歩いていて、ふっと顔をあげる(あるいは匂いで気がつく)と「あっ金木犀」だ、と気がついた、という感じ。
ですので結句のすっとぼけた感が、うまく効いていると思いました。

対句や頭韻の技法による韻律にも工夫がなされていて、なかなか「あなどれない」一首です。
Posted by 桑原憂太郎 at 2016年11月11日 21:33
考え事をしながら歩いていたら、金木犀の香りでハッと現実に帰った、その「ハッとした感じ」がとてもダイレクトに飛び込んできました。歩きながらの考え事、私もよくしますし「歩く。"歩く"とはどういうことか・・・?」とかよく考えますので、この感じはよく分かります。
Posted by 高良俊礼 at 2016年11月14日 07:02
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