この記事へのコメント
この歌を読んでまず思い出したのは永井陽子さんの「ひまわりのアンダルシアはとほけれどとほけれどアンダルシアのひまわり」です。
三句から四句のリフレインが似ているなと思ました。
ところでこの歌の解釈はわかりませんが、読後はなぜか切ない心持ちになりました。
Posted by 馬淵のり子 at 2017年11月14日 20:08
永遠に折れたままとは思わねど思わねどその細長き指

歌の構造としては前評者の方のご指摘の永井陽子さんの歌に似ていると私も思っていました。
「細長き指」から私が、思い浮かぶのは、京都太秦の広隆寺の国宝「弥勒菩薩半跏思惟像」(宝冠弥勒菩薩)です。
昭和三十五年 ひとりの京大生が、
その菩薩に接吻しようとして左頬が、弥勒菩薩の細長い右手の薬指にふれ折れてしまった。
とっさに折れた指を持ち出したのですが、もどして自首したという
事件が、しばらくしてまた、私の中で繋がりました。
半跏思惟とは片足を下ろし組んで座り片手を頬にあて、未来に人々をどのように救済するか思索する姿といわれています。
その細長き指は修復され、その京大生も健在であれば70代代後半に
なっていることでしょう。
ここでまた、永井陽子さんの歌を振り返ると、
ひまはりのアンダルシアはとほけれどとほけれどアンダルシアのひまはり
「とほけれどとほけれど」が、切ない響きでこの歌と呼応し、美しき実存の喪失が、ふとした個人的な衝動で失われた時のとほいとほい遥か未来をみすえた歌として印象深く心に残る歌です。
Posted by 西五辻芳子 at 2017年11月16日 16:32
西五辻さんのコメントを読んで歌意を理解できました。ありがとうございます。後で作者のコメントを是非伺いたいですね。
そのような事件があったことを知らないとこの歌は詠めませんし、また理解できないと感じました。
美しい菩薩像と細長い指からその愛おしい心理がぐっと伝わってきました。奥深い短歌の読み、難しいですね。
読み返していると更にしみじみと感じられました。
Posted by 馬淵のり子 at 2017年11月17日 14:33
その1:なんだかよく分かりませんね。濡れ濡れの抒情。4句は別の言葉があったかもしれませんが、あえてリフレインを選択せざるを得なかった切ない男のラヴソング、というのはどうでしょう。もっともわたしの貧弱な経験則では、残念ながらその切なさ満載の歌意を開くことはできませんです。

その2:ところで、ジャンゴ・ラインハルトというジャズ界の天才ギタリストと呼ばれるミュージシャンがいます。近く彼を主人公とした映画も公開予定だそうですが、この人、若いころに火傷を負い、左手の薬指と小指に障害が残り曲がったままとなります。ギタリストとしては致命的な障害ですが、彼は不屈の練習で残りの指だけで演奏するするという驚愕の奏法を確立し、やがて伝説のミュージシャンとなります(1953年没)。youtubeでその演奏シーンを見ることが出来ますが、とにかく指が長い(笑)この歌の作者が仮に彼のファンだったとしたら、この一首、彼への痛切な挽歌たりえますね。

いずれにしてもわが桶屋読み(風吹けば桶屋が儲かる式)を充足させる歌で、何度も読み返してしまいます。もっともどちらの読みも、作者の意図に合致いるような気がはしないのはまことに遺憾です。
Posted by 松岡 修二 at 2017年11月20日 01:05
馬淵のり子さんが引かれている永井陽子さんの歌だけではなく、「思わねど思わねど」というリフレインを使った歌を何処かで見たような…、という気もしたのですが、あるいは気がしただけ、だったかも知れません。永井陽子さんの「ひまわりの…」は〈あこがれ〉を感じさせる歌で、この詠草11の歌も「思わねど思わねど」のリフレインによってそうした雰囲気がうまく出ていると思います。

西五辻芳子さんが書かれている広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像のことを僕も思ったのですが、調べてみると、西五辻さんが言われているようにその後指は修復されているのだそうです。ところがこの歌の場合は「永遠に…思わねど」ですから、現在なおその「細長き指」は折れたままであるわけで、広隆寺の弥勒菩薩さまではなく何か別のお方の指を思われて詠まれたのだろうか、という迷いが生じてしまって、そこのところがうまく読めなかったのが残念でした。
Posted by 斎藤 寛 at 2017年11月20日 07:35
永遠に折れたままとは思わねど思わねどその細長き指

私は、短歌は時空を超えてもいいと思うので、この歌を繰り返し
音読し前回の様に書きました。

作者はあえて具体的に詠んでないわけだから、読者に読みをゆだね
それぞれの理解する範疇で「その細長き指」をおもえばいいのではないでしょうか。
折れてしまっている対象から深読みしてもいけないかもしれませんが色々想像をかきたてる歌ですね。

彫塑か仏像の指が折れて欠損したものから歌を詠まれたというのは私の思い込みだったのかもしれないけれど、現実から目を逸らさないが「その細長き指」への哀惜は歌の構成から読み取ることができると思う。
Posted by 西五辻芳子 at 2017年11月20日 15:36
馬淵さん、西五辻さん、松岡さん、斎藤さん、コメントありがとうございました。
そうかそんな読み方もあるのかこの歌はどこへいくのだろうかと思いながらコメントを拝見していました。
この歌を作る直接のきっかけになったのは菩薩像でもギタリストでもなく、プロ野球のオリックスの武田選手の骨折なのですが、あえて固有名詞や骨折の理由などは入れませんでした。それによって自由に読んでいただけたように思いますが、読み取れなさにもつながったかもしれません。
それではまた次回もよろしくお願いいたします。

Posted by 津和 歌子 at 2017年11月28日 01:25
津和さま
馬淵と申します。
わからないけれどジーンとさせられた歌でした。
津和さんの歌意を拝見して合点がいきました。
この場合に固有名詞が一つあるだけで、解りやすくなりますよね。あえて入れなかったことに何か意図はありますか?
私はよく固有名詞を使い過ぎて作為が目立つと言われたことがあります。
固有名詞が効いているか否か、私には難しいです。
この歌の場合、読者の様々な読みが自由に広がっていきましたが、作者の津和さんとしてはどう思われましたでしょう?
津和さんのご意見お聞かせ頂けるととありがたいです。
Posted by 馬淵のり子 at 2017年11月29日 20:42
馬淵さま、コメントありがとうございます。
この歌に固有名詞を使わなかったのは、固有名詞を使うと歌のニュアンスが変わってくるからという理由です。
この歌をつくるきっかけになったのは、先のコメントでも書いたようにオリックスの武田選手の骨折です。骨折したと聞いたときの「ちゃんと治るのだろうか。彼はいったいどうなってしまうのだろう」という思いを歌にしました。
しかし、この歌の場合は固有名詞を入れると、骨折した情報や現在の状況などの不要な情報が歌に加わるような気がしました。
固有名詞を入れなかったことで、みなさんの読みが私の思いもしない方向に行きましたが、ニュアンスはくみ取っていただけていますので、やはり入れなくてよかったと思っています。
Posted by 津和 歌子 at 2017年11月30日 06:01
津和さん、丁寧な回答ありがとうございました。
今後の歌作りの参考にさせていただきます。

「思わねど」のリフレインに津和さんの思いが伝わってきますね。
素敵な歌に出会えてうれしく思います。
Posted by 馬淵のり子 at 2017年11月30日 15:05
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