この記事へのコメント
一読、この歌はわたくしの歌なのではないかと思いました。^−^: 《「平成を以て元号は滅びよ」と呪ひつつ矢を放つ 中(あた)らな》(「舟」32号)などと詠んだことがありましたので。これを、天皇の代替わりは時代を画するのか? とかいう問いに変換したら大きな問題になるのでしょうが、それを脇からこのように言ったのが文学の物言いという感じで、うまくいっているように思いました。
Posted by 斎藤 寛 at 2018年08月17日 19:15
下句の、この吐き捨てる物言いは、どうしたことでしょう。「平成の最後の夏」という文言に反発し、これを口にする者に対して「奴」と呼び「風に飛ばされちまえ」という心証を持つということは、作者は元号に対して相当の負の思いを持っていると、一応理解しました。
戦後、現憲法下にも元号は慣習として存続しましたが、たしかに昭和54年に法制化されたはずです。しかし、なお世界共通の西暦でこと足りると考える人の多いのも事実であろうと思います。
元号については他にも意見はいろいろあろうかと思いますが、来年皇室の皇位継承がある以上、それまで「平成最後の夏」に終らず、まだ秋があり、冬があり、また春があるわけです。私としては「平成最後の春」まで、「平成」を十分名残惜しみたいものです。とても面白い歌だと思います。
Posted by かわすみさとる at 2018年08月18日 05:34
同感ですねぇ。

「平成最後の夏」というのは、そこにロマンを感じる人もいるのでしょうが、多分に安っぽい広告のキャッチコピーのような軽薄さを感じるのです。「飛ばされちまえ」は、そのような軽薄さ、言葉を軽く扱う風潮への痛烈なアンチテーゼとして読みました。
Posted by 高良俊礼 at 2018年09月01日 23:20
いろいろなものに対して、これが最後と聞けば安易に乗っかってしまう風潮に対する一撃、痛快な風刺作品だと思います。詠われたい内容には大いに共感します。
この口調の強さが魅力ですが、初読後私にはちょっとつらい感じとして残り、(具体的には「奴」と「・・・ちまえ」のどちらかが違う言葉であればそう感じなかったかもしれないと思っています)それがぬぐえなかったのでした。
自分の歌は表現がゆるい部分があるので、いろいろなかたちで今後のヒントをいただいた作品でした。
Posted by 柊慧 at 2018年09月02日 07:22
歌評の追伸として書こうかどうしようかと思って書き込まないままだったのですが、この歌は「平成の最後の夏」という語を却下するというかたちでそれに反応してしまっていると言えばそうなのかも知れない、と思います。思い出すのは1989年1月8日(日)(平成最初の日、ですね)という日付を持つ小池光さんの歌です。「蓮田東武ストア地下売場」という詞書があって、《かがやけるくだもののうへに黒ぐろと第二楽章の弦の音(ね)くだる》と詠まれていました(『草の庭』)。昭和という時代が終わった、新しい時代が来るとか、俺はそんな物語には乗らないぜ、という一首です。「短歌研究」の年鑑のアンケートで次代に遺したい平成の歌、とかいうのがありましたので僕はこの一首を引きました。文学のスタンスここにあり、と思います。来年、短歌総合誌などで、平成という時代が終わった、新たな時代を迎える、とかいうテーマで歌人の皆さまの作品がずらずら並ぶのではないかと思います。時代と寝てしまうのは誰か、寝るのを拒否するのは誰か、しっかりと見ていようと思っています。
Posted by 斎藤 寛 at 2018年09月10日 19:04
桑原憂太郎です。

評をいただきました皆様、たいへんありがとうございました。
作者の心情としては、高良さんの評に近いかな、という感じです。

それはともかく、今回の歌会中に、西日本は台風が、こちら北海道には地震が遭って、たいへんだった方もいらっしゃったと思います。
こうやって皆さんと歌会ができるのも、電気のある日常のネット環境があってこそと、つくづく思いました。
北海道も大きな余震もなさそうで、落ち着きを取り戻しつつあるところでございます。
Posted by 桑原憂太郎 at 2018年09月11日 20:23
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