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2018年11月01日
第37回ネット歌会詠草/6
人在らば今宵は何の王になるゆうらゆうらと叫び過ぐ声
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posted by 短歌人会 at 00:18|
Comment(4)
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この記事へのコメント
私にはとても謎めいて難しいお歌に感じました。
理解力不足ながら個人的な受け取り方と感想を記します。
「ゆうらゆうらと叫び過ぐ声」の主は人なのか、
それとも違う生き物なのか、わかりませんが、
とにかく周りにはそれを聞いている人はこの歌の詠み手以外に誰もいないのでしょう。
ともすれば「叫び過ぐ声」を聞いて恐怖心をもってしまいそうですが、
詠み手は「人在らば今宵は何の王になる」とその存在を恐れず、
憐憫や同情をもたず、声の主をしっかり受け止めているのを私は感じました。
Posted by 本間美保 at 2018年11月11日 17:54
私には読みきれない歌でした。
で、私が読めない要因は、というと、三句の「なる」が謎として残りました。この歌は、文語脈ですので、「なる」が例えば「ならむ」あたりなら、主体が、「人が存在すれば今宵、私はどんな王になるだろう」と読めて、これは、人間以外の動物を主体としたのだな、と読めたのですが、口語の「なる」では、そう読みきる自信がありませんでした。
「ゆうらゆうら」も、そんな声の動物はちょっと想像できません。「叫び過ぎ行く」あたりなら、過ぎ行く容態を「ゆうらゆうら」で表したのだな、と読めるのですが…。
Posted by
桑原憂太郎
at 2018年11月17日 08:30
秋の夜長は、この種の歌を鑑賞するにはぴったりです。まず初句から
(人在らば、この在らば、原義を推測すれば「存在・ザイン」ですから、「人がいれば」でしょうか。さて「人」とは人間(ヒューマン、メンシュ)でしょうが。)
しかし、日本語ではとくに和歌などでは特定の人(貴男、貴女)をさしますね。また「在る」も生きる、生活する、達者でいる、健在である、等々、意味が状況により拡大していきます。私はこの歌は【相聞】であると思い、読みました。女が男をおもって、男を王者とみている、ちょうど晶子が鉄幹を詠う時のように。この歌では男女は同時的にそれぞれの異なる(離れた)場所にいますが、したがって女は、「貴男は今夜はどんな王者になるの」と男を揶揄気味に思慕しているのです。
さて下の句は、これはもうイメージとして私はとらえました。「ゆうらゆうらと叫び過ぐ声」をイマジンネーションして上の句の場面に幾通りかコラージュしてみて鑑賞・想像しました。以上文の前後が統一されていませんが、申しわけありません。この解が当たっていればいいですが。
Posted by かわすみ さとる at 2018年11月20日 20:35
本間さま、桑原さま、かわすみさま、拙作を丁寧にお読みいただき、ありがとうございます。
これは、上句をまず思いついて、以下はなるべく意味を持たせない言葉で雰囲気だけの短歌にしたいと思って作ったのですが、浅慮バレバレの上に、文法の間違いもあとで気づきまして、ひそかに冷や汗をかいていた次第です。
あんまり勿体ぶらない、それで意味をつきすぎない短歌にあこがれていますが、どうも難しいものです。
Posted by 山中 もとひ at 2018年11月30日 09:46
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とにかく周りにはそれを聞いている人はこの歌の詠み手以外に誰もいないのでしょう。
ともすれば「叫び過ぐ声」を聞いて恐怖心をもってしまいそうですが、
詠み手は「人在らば今宵は何の王になる」とその存在を恐れず、
憐憫や同情をもたず、声の主をしっかり受け止めているのを私は感じました。
で、私が読めない要因は、というと、三句の「なる」が謎として残りました。この歌は、文語脈ですので、「なる」が例えば「ならむ」あたりなら、主体が、「人が存在すれば今宵、私はどんな王になるだろう」と読めて、これは、人間以外の動物を主体としたのだな、と読めたのですが、口語の「なる」では、そう読みきる自信がありませんでした。
「ゆうらゆうら」も、そんな声の動物はちょっと想像できません。「叫び過ぎ行く」あたりなら、過ぎ行く容態を「ゆうらゆうら」で表したのだな、と読めるのですが…。
(人在らば、この在らば、原義を推測すれば「存在・ザイン」ですから、「人がいれば」でしょうか。さて「人」とは人間(ヒューマン、メンシュ)でしょうが。)
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さて下の句は、これはもうイメージとして私はとらえました。「ゆうらゆうらと叫び過ぐ声」をイマジンネーションして上の句の場面に幾通りかコラージュしてみて鑑賞・想像しました。以上文の前後が統一されていませんが、申しわけありません。この解が当たっていればいいですが。
これは、上句をまず思いついて、以下はなるべく意味を持たせない言葉で雰囲気だけの短歌にしたいと思って作ったのですが、浅慮バレバレの上に、文法の間違いもあとで気づきまして、ひそかに冷や汗をかいていた次第です。
あんまり勿体ぶらない、それで意味をつきすぎない短歌にあこがれていますが、どうも難しいものです。