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珈琲の苦きを飲めば思ほゆる寺山修司の青森訛り

「ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし」という寺山修司のよく知られている一首を元にした歌で青森生まれの寺山を詠んでいていいと思い選ばせていただきました。

Posted by 永井秀幸 at 2020年08月10日 16:29
青森訛りを終生直そうとしなかった寺山修司の声が聞こえてきそうです。
森→青森→訛り→ふるさと→寺山修司、と辿るまでもなく、永井さんが指摘された寺山の一首が想起されます。寺山の一首を想起させるための初句・二句も十分にして上手い置き方だと思いました。
Posted by 肥塚しゅう at 2020年08月11日 16:43
前評者の肥塚さんの指摘のように、この歌の一番のよい点は題詠「森又は杜」で、普通に「森」ではなく「青森」を連想し、一首にできた点です。その上「青森」から「寺山修司」「青森訛り」「珈琲の苦きを・・」とあるように、寺山の教科書にも載っている有名な一首(前の評者二人が挙げておられる歌)の本歌取りの歌に仕上げた歌とおもわれます。そこまでは普通に考えれば、何の問題もないです。しかし、本歌取り・コラージュ・パロディー・模倣の名手であったり、自分の俳句を短歌に引き延ばす(?)名手であったりした寺山修司のこの歌は、やはり教科書に載っている啄木の「ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」(分かち書きなしで書きました)の本歌取り、コラージュそのものであり、ある意味では、本歌取りが成功しているとおもわれます。本歌取りの歌が教科書に載る珍しいケースです。寺山修司の本歌取り・コラージュの力が、ずば抜けていたことの査証でもあります。ということを考えると、この歌は寺山の短歌の本歌取り、と捉えるだけではなく、啄木の短歌の本歌取りの短歌の、そのまた本歌取りの短歌として鑑賞する必要がある短歌です。いわば、二重本歌取りの短歌であり、鑑賞する方も、二重鑑賞法が必要になります。ここは一首評の場であり、その二重鑑賞法を詳しく展開する場ではないので、端折っていえば、二重本歌取りの短歌の2番目の短歌は、方向性として、元の本歌に近づいてしまう確率が高くなります。この短歌でも、寺山の短歌が「ふるさとの訛なくせし友」と本歌を反転しているのに対し、本歌と同じになっています。又、寺山の短歌が「モカ珈琲はかくまで苦し」と固有名詞にして、より具体なイメージを提示し得ているの対し「珈琲の苦きを飲めば」と普通名詞になっています。というように、方向性として元の本歌により近づいていると考えられます。本歌取りは、ある程度難しい技法ですが、「二重本歌取り」は、流行りの言葉でいえば「超絶難しい技法」と考えられます。相当飛躍したことを書いてしまいました。僕は、自分が短歌を作る時も、短歌の一首評でも、必ず、短歌の本質についても、常に考えていくべきであると考えています。また、短歌の本質について考えさせうる短歌は、それだけで価値の高い短歌だとおもいます。
Posted by 山寺修象 at 2020年08月13日 06:29
啄木の歌も寺山修司の歌も知ってはいましたが、寺山修司の歌が啄木の歌の本歌取りであることに気付いていませんでした。どちらも単体で記憶にあるだけで、きちんと理解しようとしていなかったことを反省しました。とても勉強になりました。山寺様に感謝します。
Posted by 鎌田章子 at 2020年08月18日 08:49
作者の冨樫です。この歌に票を入れてくださった方々、コメントをくださった方々、ありがとうございました。わたしは秋田に住んでいるので、啄木の岩手、寺山の青森は身近に感じられます。
Posted by 冨樫由美子 at 2020年08月24日 13:24
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