この記事へのコメント
すごく魅力的な歌ですが、解釈をと言われると難しいです。
上の句は実景ですね。一面にイチョウの葉が散った真っ黄色の景色はとても美しい。けれど、このイチョウの葉は腐りにくくて肥料なんかには不向きな厄介者。
下句は『カラマーゾフの兄弟』の三兄弟と血が繋がっていそうな自殺してしまう下僕の名前があって、「死んだところだ」と。
なんか、説明ができないんだけれどいろんなことを考えさせられる歌だなと興味深く思いました。皆さんのご意見で深く掘り下げてほしい一首です。
Posted by 鎌田章子 at 2020年11月18日 10:22
興味深い歌で鎌田さん同様、私も惹かれる一首です。
作者が小説『カラマーゾフの兄弟』を読んでいて、スメルジャコフの自殺の場面だったのではないかと単純な発想しか思いつきませんでした。
場所は公園なのか、自宅から見える景色なのかわかりませんが、初句のような景色の中にいて読書していたのかなと。

もしかしたら、もっと哲学的な何かを伝えようとしているのかもしれませんが、読み解くことはできません。
Posted by 馬淵のり子 at 2020年11月18日 19:03
秋風がイチョウの枯葉舞い上げるスメルジャコフは死んだところだ

「枯葉を」でないのが軽やかで、喪失感があって効果的です。
「枯葉」は冬の季語と初めて知りました。俳句でないからいいでしょうか?
(変更するとすれば、「秋」の箇所だと思われます)

イチョウの黄の葉と風に舞う乾いた音が、映画のワンシーンのように浮かびます。
侘しくも劇的な情景です。
その現実の一場面が、小説の衝撃的な展開とちょうど同期したのでしょうか。
(私も馬淵さんの、初句のような景色の中にいて読書していた、という見方です)

「死んだところだ」という、突き放した乾いた口調に
読書体験の重苦しさから距離を置こうとする心の動きを、かえって生々しく感じます。

乾いた枯葉や口調と、スメルジャコフという長く粘っこいロシア人名との対照も、効果的です。

いつか作者がこの本のこの場面を読み返すと、
この日のイチョウの記憶が甦るのかもしれません。

Posted by 川上幸子 at 2020年11月25日 16:39
とても魅力的で気になった一首でした。馬淵さんと同じように、読書をしていての歌と思いました。夢中になって読んでいて、死んだところでひとまず気持ちも一段落し、顔を上げたら秋風に舞い上がるイチョウの葉が目に入った、というように読みました。本の世界の興奮を引きずったまま、現実世界に戻ったばかりの心の鼓動が聞こえてきそうな気がしました。
Posted by 加藤隆枝 at 2020年12月01日 20:58
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