この記事へのコメント
投稿を間違えてしまいました。
たいへん失礼いたしました。

 五月には鯉のぼりが青空にはためき、秋は鮮やかな紅葉と四季を通じて作者の目を楽しませる風景が詠われています。裏山の紅葉と植木屋の間には直接の関係はありませんが、あたかもこの植木屋がその眺めを丹精したかのようにも読めるのは作者の狙いなのかどうかが気になります。
Posted by 光本博 at 2020年11月17日 21:21
この歌は
鯉のぼりの竿立ちしままの(庭を手入れする)植木屋の背後の山は錦秋に染む

(庭を手入れする)の意味が大胆に省略されているのだと思います。
「鯉のぼり竿立ちしままの植木屋の」という流れが私は気になって。
私だったら
「鯉のぼりの竿立つ庭の植木屋の・・」としてしまうでしょう。

でも作業して動く植木屋とはるかに大きく動かない背後の錦秋の山との対比が魅力的な歌です。
Posted by 海野 雪 at 2020年11月21日 08:29
この歌の「植木屋」は、もともとの意味の一人の職人ではなくて、○○造園といった造園業を営んでいる敷地で、移植用の樹木や庭石が並べられている風景を想像しました。
背後のスケールの大きい自然の美しさと、手前に見える植木屋の対比が面白いと思いました。
人の営みが自然の美しさにくらべるとちっぽけなものだなあという感慨を詠んだとも思えますし、また、光本さんが言われるようにこの植木屋が背後の山の紅葉をも手入れして作りだしたような読みも面白いと思いました。
Posted by 肥塚しゅう at 2020年11月21日 11:56
鯉のぼりの竿立ちしままの植木屋の背後の山は錦秋に染む

鯉のぼりは片付けたけれど、竿は場所を取るので立ったままなのですね。
小さな人間の営みと、雄大な山とが対比され、それらを季節のめぐりが包んでいる、
気宇の大きなお歌だと感じました。

光本さんのように「植木屋がその眺めを丹精したかのように」読めるならば、このお歌には
「借景」という美意識が息づいていることになるかもしれません。
意識的か無意識的かは分かりませんが。

Posted by 川上幸子 at 2020年11月22日 16:22
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