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短歌人会の公式なネット歌会会場です。
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2021年11月22日
posted by 短歌人会 at 00:17|
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第47回歌会
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普通に考えると、督促であれば般若でしょうが、神の面、女性の面それぞれに怖さがあります。
能面の種類を特定していないことは、読者の想像に委ねるという作者の選択かと思います。
かなり辛抱強く待った結果、状況に進展が見られない。静かな怒りがひしひしと伝わってまいります。
「ようやく」は、使う機会がなく秘蔵していた絵葉書を使うということであり、また最後の手段ということでもあるのでしょう。
絵葉書になるくらいですから、博物館に展示される国宝クラスの面かもしれませんね。
能面の種類は想像するしかありませんが、督促相手に怒りと能面の写真から受ける気味の悪さを伝えることになるのでしょう。後ろめたく思っている相手に対して効果的かもしれません。
督促の絵葉書にある能面を想像すると、やはり「般若(鬼女)」だと思いますが、般若には怒りだけでなく、鬼になってしまった女性の悲しみや苦しみが隠されているそうです。
催告書ではないものの、金銭の支払いを求める「督促」であるので、かなり深刻な状況だと思います(督促状にハガキを使うことはあまりない)。
この一首では主体が、督促のために封書でなく絵葉書を使っていること、また、下句の「ようやく使う」で能面の絵葉書であることが必ずしも必須でなかったような気持も感じとれて、主体の深刻度合いがややゆるめられているように思います。
それは、相手に対する主体の気遣いであり、相手との距離感に配慮しているようにも感じられ、私には、主体の正直な気持ちを感じとれる一首でした。
倒置法が気持ちよく決まったうまい歌だと思います。
「能面の写真刷られし絵葉書」と上の句いっぱいを使ってモチーフを説明し、それを「ようやく使う」(今まで使わずに取っておいたわけだ)。その理由が「督促のため」と結句で明らかにされるわけですね。読者はそこで驚くとともに「なるほど」と納得する。
「能面」がどのようなものかは読者の想像に委ねられていいんじゃないでしょうか。(音数の問題もありますが)たとえば「般若」だとしたら「督促」とつきすぎてしまって切れ味をやや殺いでしまうように思います。
たとえば「般若」だと初句で言ってしまったら
の意です。
4句の「ようやく」が、いいです。
以下は、感想です。
結句で、ネタバレ的になってしまっているのが、少しもったいないなあ、という感じがします。倒置になっていますので、結句でかなり見得を切った構成になっています。
何かしらの催促を能面の絵葉書に書いて送った、と句切れなく一文で韻文にした方が、能面の絵葉書という面白いモチーフが一首で生きるように思いました。
ただし、そうなると、歌の力点が「催促」から「能面の絵葉書」に代わってしまうので、余計な意見といえばそうです・・・
「刷られし」と「ようやく」はない形の方がいいとおもいます。「ようやく」は副詞です。一般的に、形容詞と副詞と副助詞は、短歌の一首の中で、頻度として、マイナスに働く場合が、ある程度あります。それらの語自体に、作者の意思やおもいや判断が、ニュアンスとして含まれているので、そのことが一首の中で強く出過ぎる傾向があるのだとおもいます。
この歌の場合も、副詞の「ようやく」が強すぎるようにおもわれます。それに、無くても、そのニュアンスは、ある程度含まれているとおもいます。強くではありませんが。