この記事へのコメント
蒔田さんの
 なめらかに嘘がいへるといふことのたのしさも知りてもう若からず
というお歌を思い出しました。

作者のご年齢は不明ですが、生きていく上で大なり小なり嘘を言うのは致し方のないことです。
しかし、一般的にはそれはいいことではなく、また口から出るものなので、歯ブラシの比喩が使われているのかなと思いました。

歯ブラシによって嘘という汚れを落としてきたのですね。
Posted by 光本博 at 2021年11月26日 07:08
歯ブラシの数くらいの嘘の数。リアリティがあっていいなあと思って読んだ歌でした。私などはもっとたくさんの嘘をついて生きてきた気がします。
蒔田さんのお歌、お幾つくらいの時に歌われたのでしょう。ずっとずっとお若い時の歌じゃないかと想像しました。何かの時に思い出す人がいる歌、思い出せる人がいる、とても素敵だと思いました。
Posted by 鎌田章子 at 2021年11月26日 09:40
先にあげた蒔田さんのお歌は第二歌集『森見ゆる窓』のなかの一首です。
同歌集は昭和40年刊行のため当時の蒔田さんは30代半ばということになります。
一般的にいって「若からず」はあたらないと思いますが、ご本人の主観としては嘘がなめらかに言えるようになったことに対して年齢を重ねたものだという感慨を持たれたのかもしれません。
Posted by 光本博 at 2021年11月26日 19:33
 嘘と歯ブラシ、口を吐いて出る嘘、口(歯)を磨く歯ブラシ。
 歯磨きをしながら、作者は今日、あるいは昨日吐いた嘘を反芻しているのかもしれない。日々の何気ない動作の生活感と、こころの揺れが感じられる、良い歌だと思います。
Posted by 弘井文子 at 2021年11月29日 10:41
人生の中で、数え切れないくらいの沢山の経験したことの二つが、(ちょうどきっかり)同じだという断定には、短歌としては拒否感や違和感を感じてしまいます。作者は、他評者が書かれているように「同じ数(くらい)」という意味で作られたのかも知れませんが、「同じ数だけ」と書いてあり、強い断定で「同じ数」よりもっと強く言い切っています。
保育園の年長くらいの年齢なら使ってきた歯ブラシの個数を覚えているかも知れませんが、結社に入って短歌を作っている年齢では、あり得ないとおもいます。ぼくには、あり得ないことの二乗を扱ったのこの歌は、リアリティがあまり感じられない短歌です。細かく考え過ぎだと思われるかも知れませんが、短歌は短いので、比喩も含めて、書かれた通り捉える以外に鑑賞の方法はありません。
「消費」という漢語は「使う」という和語にしたら「すこしやわらかい」感じになりそうです。
Posted by 山寺修象 at 2021年12月02日 06:08
17年前、地元の結社が創立50周年の記念に小池光氏に来て頂いて講演会と歌会をやったおりに恐る恐る「真夏日の放置自転車人を恋ひ黒黒と影立ち上げるらし」という歌を出しました。その時に「立ち上げるらし」と推量にするより「たたせゆくなり」と断定する方が歌は良くなるとアドバイスをいただきました。
歯ブラシは1月ほどで交換するでしょうから、ひと月に1回の嘘をついている計算です。人間のすることがきっかり決まった状態で行われるとは思えません。でも、そのくらいだなあと思ったことを同じ数と表現しても許されるのではないかと思うのです。
私はもっとたくさんの嘘をついていますから(自分自身に対しても)月1の嘘なんて可愛いなと思いつつ、そこそこのリアリティを感じて読みました。
大雑把すぎる生き方かもしれませんが、人生楽しく生きられると思っています。
Posted by 鎌田章子 at 2021年12月03日 12:06
前評者に一部反論させてもらいます。前評者自身のの一首では、擬人化された物(ここでは自転車)を主体にした他動詞という、かなり特殊な動詞の使われ方である「立ち上げる」プラス推量形を「たたせゆくなり」と断定形にした方がいいとのことですが、僕自身も、歌の良し悪しとは関係なく、この歌の場合は断定の方がいいとおもいます。この場合は、断定形にした方が擬人化の度合いが強くなるし、読者が受け取るイメージ、映像といてもクリアーになります。だからといって短歌はすべて断定形がいいという訳ではないです。短歌はラーメン屋の名称ではないので「なんでんかんでん(何でもかんでも)」断定がいい訳ではなく、推量を使う歌もあるし、断定形を使う歌もあります。茂吉にも、推量の助動詞を使った短歌は、多分、何百もあるはずです。
15番の歌では「だけ」も使った「二つの相当大きい数の比較」を取れるか取れないかなの問題であって、断定か推量かは、その次の問題なのだとおもいます。
ぼく自身は、この歌の断定形がいいか、推量形にした方がいいかは、直接には触れていません。
Posted by 山寺修象 at 2021年12月03日 15:32
これまでに消費してきた歯ブラシと同じ数だけついてきた嘘

今までに使った歯ブラシの数 = 吐いた嘘の数 の表現がどちらも数えられない数値であるのがリアリティがない、なのですね。
喜寿も遠に過ぎた私はどちらも数えきれません。
感覚としては 歯ブラシ<嘘 です。
私は目の前にある些事しか歌えていないので、この歌のような発想が出てくることが羨ましく思いました。
でも、リアリティにかけることになるのですね。
勉強になりました。有り難うございます。
Posted by 鎌田章子 at 2021年12月04日 12:43
コメントが伸びることで、歌の読みが深まってきていて、愉しいです。
 これまでの議論に関連させるのであれば・・・

 そもそも、この歌にリアリティは、ないですよね。歯ブラシと嘘の数が同じだなんて、そんなワケがない。つまり、この歌は、リアリティの文脈で解釈してはいけないんだと思います。
 だから、山寺さんが、リアリティが感じられないと仰るのは、(前評の鎌田さんのコメントを受けていたにせよ)、リアリティの文脈で解釈しようとしているからで、はじめからウソを詠っているのに、ホントっぽくないとコメントされても、ちょっと困ってしまう感じです。
 この歌は、そうした明らかにウソだとわかったうえで鑑賞する、といった作品なんだと思います。

 読みとしては、歯ブラシと嘘の取り合わせを愉しむとかが、あると思います。弘井さんのコメントは、そうした読みに近いかもしれません。あるいは、光本さんのように、喩として愉しむ読みもあると思います。

 私は、「消費」という言葉の斡旋にとても惹かれました。こうした詩的ではない言葉を、歌のなかにのせるのは、悪目立ちしちゃってなかなか難しいのですが、この作品については、歌の内容の乾いた抒情性とうまく合っていると思いました。この「消費」が、ちょっとしたアクセントとなって、結句の「嘘」の体言止めとうまく響いているように思いました。
Posted by 桑原憂太郎 at 2021年12月08日 20:46
夜にコンビニで買って朝捨てる歯ブラシ、つまり一泊だけつかうもの、ワンナイトの恋愛関係(に不属する嘘と歯ブラシ)と読みました。

ここで捨てているのが一夜限りの恋人の方ではなく、自分の素性(つまり嘘をついて仮の恋をしている)を仮託した歯ブラシというのが現代的でおもしろいなと……
自分を捨ててくるとでもいいますか。

しかしそこに「これまでに」とつくことでなんとなく恋愛だけでなく日常全部、会社や家庭なんかでもがふわっと「嘘」で「消費」だという乾いた歌として読みました。
Posted by 国東杏蜜 at 2021年12月14日 22:16
たくさんのコメントをありがとうございます。自分の想像を超えたところでさまざまな読みをしてくださり、大変勉強になりました。

「嘘も方便」と言いますが、やはり嘘にはあまり良いイメージがありません。嘘をつくのが不得手なうえ、嘘をつくと後々面倒なことになるので、意図して嘘をつくことは少ないのですが、それでも無意識についてしまう嘘を含めると、自覚した数よりはるかに多くの嘘をついているだろう…と思いながら作った歌です。歯ブラシは口中の汚れを掻きとって捨てられるもの、嘘も同じく口から出るもの、という連想でした。
あえて「消費」という言葉を選んだのですが、歯ブラシは単に使われるだけでなく捨てられるものだからです。嘘も口から出た瞬間どこかに飛んで行ってしまう。今は見える場所にないだけで、汚れや嘘がなかったわけではない、という意味を込めたいと思いました。
Posted by 亀尾美香 at 2021年12月20日 21:06
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