この記事へのコメント
庭の隅の方に木があるのか、あるいは何も背を屈めるような障害物がなくても腰や頭を下げて水仙に挨拶するようにしていると伺え、万物への尊敬が感じられる歌です。
二句と四句の字余りも少しもったりたっぷりした音韻が慇懃でありながらユーモラスでこの歌に合っていると思います。
材の水仙は名前の由来にも合っていていいなあ清々しいあと感じました。
Posted by 橋小径 at 2022年02月15日 21:10
四句「水仙の界」という言葉に強く惹かれました。少し気になったのは結句「粛と入らむ」です。「粛」は連語「粛として」の形が一般的です。したがって「粛として入る」が自然でよかったのではないか、と‥。
Posted by 吉岡生夫 at 2022年02月16日 17:43
水仙の大きさは変わらないのに、自分が身をかがめて目線を低くしていくにつれて水仙はどんどん大きな存在となっていくようで、対比の面白さを感じました。親指姫くらいになった自分が水仙の界に入り込もうとしているような魅力を感じた1首でした。
結句については、吉岡さんも指摘されているように「粛として」が自然な形と思いました。ただ、すんなりと「入る」よりは「入らむ」という作者の意志も感じていたい気がします。
Posted by 加藤隆枝 at 2022年02月21日 01:09
高橋さま 吉岡さま 加藤さま

適切なご批評をありがとうございました。
まことにうれしく拝読いたしました。

庭に咲いている水仙の香りを嗅ごうとしたら、まあなんと這いつくばった姿勢であることよ、と思ったものです。

「粛として」のご指摘、使い方はそのとおりと思います。悩んだところですが、すっと入ってしまう前に一拍欲しくて、強引にあのようにいたしました。絶対ダメという方もいらっしゃるかもしれません。
字余りも肯定的にお読みいただきました。(うれしく)
「身を低くして」とすれば定型になりますが、「からだ」と開いて詠みたかった。
理屈はなく。

出来た歌を読むとこれはわたしではなく猫かしらん、と思ったりしました。

楽しいですね、ありがとうございました。
Posted by 川井怜子 at 2022年03月12日 15:10
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