思案して動き出しては思案する自動洗濯機という賢者
【選歌集計結果=10票】
【投票者=伊藤まり/太田青磁/大野奈美江/加藤隆枝/肥塚しゅう/斎藤 寛/橋小径/藤井柊太/村田 馨/山寺修象】
【投票者=伊藤まり/太田青磁/大野奈美江/加藤隆枝/肥塚しゅう/斎藤 寛/橋小径/藤井柊太/村田 馨/山寺修象】
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洗濯機の全自動機能は、AIが流行るずっと以前からある賢いプログラムなので、現代ではなく「いにしえ」の賢人という意味が感じられる「賢者」が言い得て妙、抜群・絶妙の言葉選びです。「思案」という言葉のリフレインも、リズムが生まれ効いていると思います。
最高得票数に納得の一首です。
ウチの洗濯機は最新のものではありませんが、うすものを洗うモードにすると、ちょっと動いては止まり、しばししてまたちょっと動いては止まり…というふうになります。それをうまく一首にされた作品と思いました。肥塚さんが言われているように、「思案」「賢者」という語がうまく決まっています。
一点気になったのは「自動洗濯機」という語です。対語は「手動洗濯機」で、昔そういうのがあったなあと思ってネットで調べてみたら、手回し式のものが今でも売られているようです。それとの対比で「自動」と言われたわけではないと思うので、一般に流通している「全自動洗濯機」という語をそのまま使ってもいいのではないかと思いました。音数を考慮して「全」を省いたのだと思いますが、「全」を入れると4句字余りでさらに句跨り、という韻律が何かタメが入った感じになって、かえってプラスに働くのでは? と思ったのですが、どんなものでしょうか。
斎藤寛さんのご指摘のように、私も「全自動洗濯機」の語をそのまま使ってもいい気がしました。
皆様すでに書かれているとおりですが、「思案」や「賢者」という言葉選びが素晴らしいと思いました。うーんと唸りながら、少し動いて(洗濯物を均して)一旦止まり、またうーんと唸って洗濯物の重量を計り運転時間などを自動で決定する。思慮深い「賢者」の様子が目に浮かぶようです。昨年かなり悩んだ末に最新式の洗濯乾燥機を買いましたが、洗剤や柔軟剤も自動で計って入れてくれて、本当に賢いなぁと思います。
賢者という言葉が、確かに他の言葉が思い当たらないほどが決まっていると思います。歌の中で結論が出て、歌が完結していると思いました。
ただ、私にはそれが良いことなのかよくないことなのかが分かりません。作者がそう感じたことを表現しているならそうなのかもしれませんが、最初に読んだとき、洗濯機という一般的なものに対して、冒頭の面白さから各々に膨らませるイメージがそこで止まってしまうように私は感じました。あまりに自然に最初の部分が入ってきたために、一瞬、戸惑いを感じました。そう思ったのはうちの十年目になる洗濯機のせいかもしれません。
このような疑問に対してどう思われるでしょうか。
下の句が、意味的には8音、6音になっていますが、やはり「全」を加えて、(もし、自分の短歌だとしたら)洗濯のあとに微妙にすこしの間を置いて9音、7音に聞こえるように読みたいです。
洗濯機が動いているところではなく、止まっているところから歌い出しているところも評価したいです。
「思案して」「思案する」と、微妙に使い分けているところは、思案の二度の使用を目立ち過ぎなくしているので上手いとおもいます
白井さんの指摘に僕も賛成します。短歌の一番大切なことの一つを指摘されているとおもいます。この短歌の場合、4句目までで意味的に終わっていて、結句で作者の解釈を加えていて、作者の伝えたいことをすべて伝えることができている短歌になっているとおもいます。白井さんの表現では同じことを「歌の中で結論が出て歌が完結している」と書かれています。
この歌の場合、結果的に余韻の部分がすくない作り方になっているので、結句は意味的に無い形にして一首を作る方向で推敲したいところです。
僕自身、「完結短歌」より「余韻短歌」を作りたいものだなあ、といつもおもっています。
ただそういう理解だと、実際にやっていることが単純である点や、これを思案の仕方としてみると少し考えて行動してまたすぐ立ち止まってまた考えるという形になります。問題が生じたからその時点で考えているにせよ、なんとなく立ち止まっているにせよ、行き当たりばったりなやり方だと思えてしまいました。そのため、私は「賢者」だとは感じませんでした。
そのため、逆に、この様子を「賢者」とする点を評価する皆さんの評を面白く読ませていただきました。「賢者」の在り方にもいろいろあるのだと気づかせていただきました。
実際の短歌では「動き出しては」であって「動き出した」一瞬の(音の)ことを表現していており、「動いて」(いる)とは詠まれていません。細かく丁寧に読み取りたいです。
ただ、私の理解が「少し違う」と言われるべき理由は、よくわかりませんでした。とりわけ、以下の点がよくわかりませんでした
・この作品が「聴覚情報だけからイメージとして擬人化した作品」であって、視覚情報を考慮するのは「違う」と言われるべき理由
・「自動洗濯機という賢者」といっているこの歌は自動洗濯機のどこを「賢者」といっているのだろう?と「賢者」のイメージに照らして考えることが「視覚的に実際の人物でイメージし過ぎる」ことになると考えるべき理由
・「動き出しては思案する」というこの歌の表現に接して、動いているさまをその表現の間隙に示唆していると理解して、自動洗濯機が動いているさまをイメージすることが歌を「細かく丁寧に読み取」れていないことになる理由
私としては、読解としては私の読解も山寺さんの読解も可能であるが、山寺さんの読解の方がこの歌をより面白く読めているということかな、と考えております。ただその前提となる「賢者」像を私が共有出来ていないのは残念ですが、そういうことはままあることで、それ自体が良いとか悪いとかではないと考えています。
自分としては、かなり集中して二度書いたので、この歌の僕の一首評は終わりにします。少なくとも他の人が指摘していないことを幾つか書かせてもらいました。
相対的ですが、僕自身はこの歌を一番評価したいです。