線路沿いの道を歩いた存在の歩いた道を車窓より見る
【選歌集計結果=3票】
【投票者=小川 亮/斎藤 寛/光本 博】
【投票者=小川 亮/斎藤 寛/光本 博】
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線路沿いの道を歩いた存在(A)がいる。
そのAが歩いた道を私は車窓(おそらく電車の中)から見ている。
Aが今現在自分の目の前にいないのは確かだろうと思います。それはたった今目の前から消えてしまったのか、あるいは極端にいえば十年ぐらい前に歩いていたので目の前にいない、ということも考えられます。
この一首が読みづらい原因は「歩いた」の繰り返しだろうと思います。それぞれが「存在」と「道」と別々の対象にかかっていて分かりづらい。もともとその点は意識した上での文体かと思いますが、あえてこのように読みづらい表現を取った点に注目しました。
「車窓より」ですから、われ(僕は「作中主体」という語には違和感があるので、歌の中のわれという意味で「われ」と表記します)は車内にいる。「線路沿い」ですから、光本さんが言われているように、おそらく電車の中でしょう。
線路沿いの道というのは、たいてい大通りではなくて小径ですね。その小径に雪が積もっていてそこに何ものかの足跡が続いている、というシーンだろうかと読みました。それを言うのに「存在」という語を使ったのがこの歌の読みどころでしょう。「彼は宴会にはなくてはならない存在だ」とかいうなら普通に言いますが、この歌の「存在」はちょっと浮いていて、「存在と時間」とかいうようなモードを思わせます。そして「道」「歩いた」の反復がちょっとした混濁を作っていて、光本さんの言われている読みづらさがこの歌の狙いなのだろう、と思いました。
あるいは雪の上の足跡ではなく、なにものかの「存在」の気配と読んでもいいと思いますが、「車窓より」ということなので、気配まで感じ取るのは無理があるかも知れません。
とても惹かれるイメージだと思い、一票入れたくなりましたが、存在という言葉のせいか、すんなりと読めない感じを受けました。。光本さんと斎藤さんの解釈を読み、逆に「存在」という言葉がこの歌の狙いだと言われていることが、面白いと思い、この存在とは一体誰だろうかと再び考えました。言われてみれば確かに「存在=われ」と考えない方が自然に読めると思いました。でも私はまだこの存在は「われ」なのではないかなと疑っています。
どのような「存在」だとしても、その存在が線路沿いの道を歩いたのならば、その存在は「線路沿いの道を歩いた存在」になります。そのため、誰かが歩いていた線路沿いの道を眺めたときに、そこに歩いていた存在が「線路沿いの道を歩いた存在」なのは自明です。
このトートロジーをあえて歌にしたのがとても面白いと思い、投票しました。なぜこのようなトートロジーを用いたのでしょうか。それは、詠み手にとって、「存在」が、そのようなトートロジーを用いてしか表現できない「存在」だからだと私は読みました。
そのようにしか表現できない理由はいろいろとあり得ると思います。ただ単に全く知らない人でもそういうことになります。しかしここではあえて、少なくともかつてはよく知っていた人のことを詠んでいると読みたいと思います。
かつてよく知っていたが今はよく知らないから、トートロジーで表現するしかないという断絶とそれに伴う哀愁。あるいは、その人のことを今でも知っているとしても、その知っているという事実から自分の思考を引き離したいという断絶。そういう断絶が、トートロジーによる「存在」の同定として表現されている。その哀愁の表現に心を打たれました。
僕は「存在」という語に含まれる不思議感の成分の方に関心が行ったので、「存在」は人かも知れないし、人以外の何かの生き物かも知れないし、ひょっとしてこの世ならぬものかも知れない、そこのところは謎のまま残されているというのがいいと思ったのでした。その不思議感をキープして「存在=われ」で行くなら、線路沿いの道を歩いた存在が今歩いているのを車窓から見る、というようにドッペルゲンガー風に仕立てるのもおもしろいかも知れません。いや、ちょっとそれは凝りすぎでしょうか。
小川さんの評は「存在=われ」とは読まれていない点では光本さんと斎藤と同じですが、その先に「かつてはよく知っていた人」にまつわる物語を感知されていて、もちろんそのようにも読めると思いますが、やや深読みに過ぎるのでは? と思いました。
線路沿いの道を電車で来たほうに歩いてつぎの電車を待った
斉藤斎藤『人の道 死ぬと町』
へのオマージュですね。続きでしょうか。いま解りました。
もし初見時に元歌ありと気づいていたら、こんなにああでもないこうでもないと言って楽しむこともなかったでしょうし、3首選にも入れてなかったのでは? という気もします。^^;
作中で主語が特定できない作りになっている場合や、どちらともとれる場合には、先に作中作者をイメージして、それが違うなあ、という場合に他の人をイメージするようにしています。勿論、歌意から判断できる場合もあります。
作中作者と捉えたとして、「を歩いた存在の歩いた(道)」の部分は理屈になっているとおもいます。理屈に挑戦した短歌、意欲的な短歌と捉えることもできるとはおもいます。
オマージュや先行歌があるという指摘、読み取りは、本歌取り、或いは本歌取り的な短歌、ということでしようが、僕は「本歌取り」でも「本歌取り的な」短歌でもなく、偶然「線路沿いの道」という言葉が使われているだけだと、一首を読んでおもいました。本歌取りの場合には、本歌に対する尊敬や評価の部分が欠かせないし、その上で、少し変えた趣向や、その歌を乗り越えようとする強い意志が感じられることも大切だとおもっています。この歌からは、その部分は(いいとか悪いとかの判断ではなく、)僕には感じられませんでした。
歌意から「車窓」は電車の「車窓」でしょうが、初読で一読した時に、「車」という語(漢字)から、視覚的に車の窓をより強くイメージしやすいとおもいます。
この歌は『人の道 死ぬと町』の、2011年の項目の最後にあります。
私は、思い出したのではなくて、昨日たまたまこの歌集を読んでいて、185頁に差し掛かったところで、ちょうどこの歌に出会いました。ふたつの歌は、「線路沿いの」で始まるという点だけが一致しているだけではなく、作中人物の行動が一致しているように思われました。それは何か故意があるように思われました。しかし、その時点では、ふたつの歌の関係性がよく見えませんでした。
『人の道 死ぬと町』は、2011年の項目の途中から震災のことを詠んだ歌が並びます。
一首だけを読むと、作中人物は、電車を降りてどこかへ行くのではなく、一駅戻ってまた次の電車を待つ、という一見不可解な行動をしているように見えますが、歌の並びの中で読むと、個人的な解釈ですが、震災から数ヶ月が過ぎようとしている被災者の、前に進めない心境、進もうとはするが、進みたくない心境を歌っているようにも思われました。
線路沿いの道を歩いた存在の歩いた道を車窓より見る /藤井柊太
なぜ、「存在」なのか。なぜ歩いた道を見ているのか。いろいろな疑問がありましたが、仮に、この歌が先述の歌の本歌取りだとしたら、提出歌の作中人物は、待っていた電車に再び乗って、過去に戻った道を見るというストーリーが成立します。この間に12年の歳月が存在します。ここで、存在とは震災の当事者なのではないかな、と想像しました。
もし、2023年の今、あえてこの歌を提出されたのだとしたら、強いメッセージを感じます。作者にだけ届けば良いと思われたのかもしれません。
すべてが私の妄想かもわかりません。